耳元を風が吹き抜ける。
方々へ散らされた髪を無造作に押さえつけると、佐助は馴染みの気配に目配せをした。

幸村に付けていた配下の気配が消えるのを確認しつつ、杉の幹に背を凭れさせ、投げた視線の先では主が何やら小川の流れを熱心に見詰めている。

遠地へ出していた部下からの報告を受けるために、散歩の道中、幸村の護衛を佐助は他の者に任せていた。
主の願いよりも優先させるべきは彼の無事なのだから、そのために必要な非礼は致し方もない。

何を思うのか幸村は供を付ける時、手が空いていれば決まって佐助を呼びつけた。
幼い頃より共にあった年の近い存在に親しみを覚えるは人の情と言えるのかもしれないが、佐助としては相応の侍従をこそ従えてもらいたかったのだけれども、何度諭そうと幸村は聞く耳を持たなかったし、加えて総大将である信玄公が面白がって口添えをするものだから、幸村はますます当たり前のように散歩へ湯治へ佐助を連れ出す。
いっそ佐助が手隙の折を見計らってさえいるのだから始末に終えない。
友か何かとはき違えているのではないかと、幸村の執心は時折佐助に不安を招く。
けれども
齢十七ともなれば、幸村とて僅かに報告のために傍を離れることでめくじらを立てる筈もなかった。

(ちっこい頃は、ちょっとでも離れようもんならおたふくみたいになってたのにねえ)

あの頃も今も、そんな主の素振りを困ったものだと思うと同時に、どこかでそれをよすがにしている己の愚かさを、佐助は幸村に仕え始めてよりもう随分の間、滅することが出来ずにいる。

不安は幸村のみならず、正しく佐助自身へとも突き刺さり続けていた。
後ろめたさを払拭すべく一度かぶりを降ると、佐助はとん、と足元の枝を蹴り、音もなく長く伸ばされた黒髪の後ろへ降り立った。
稚児のようにしゃがみ込んでせせらぎを覗き込む持ち主のせいで、すっかり地面へ撒かれた一房を摘み上げると、佐助は無遠慮に腕を引いた。

「い…っ!!!」
「なあに見てんです?美味そうな魚でもいた?」
「佐助!戻ったなら戻ったと言えば良いだろう。抜けたらどうする、意味もなく髪を引っ張るな。」
「あら?だって髪なくなったら大将とお揃いじゃ」
「そ、そうか…!お館様と…」
「……うん、ごめんね、俺様が悪かったから。で?ほんとに何してたん?」

叩いた軽口の大半を直球で受け止める主の気質を知りながら、つい他愛もない言葉ばかりが口を突く。
口やかましい小言であったり、気心の知れた友のようであったりと、そうしたものを主の望むままに己へ許すようになったのは、いつのことだったか。
ああ、と思い出したように笑みになる幸村の表情は佐助の知る限り変わらない。
真っ直ぐにこちらへ向けられる眩しさに、眼がくらみそうな心地になる。

「魚がな、以前お前が捌いて食わせてくれたことがあったろう。」
「はあ…そりゃまた懐かしいこと思い出すね。」

確かにまだ元服も済ませていない時分に主と二人で山歩きをしていた折に、川魚を素手で仕留めた主へと、その場で調理してみせたことがあった。
いつ何があるか知れたものではないから、魚の一匹どうにかまともに食する術を一度目にしておくのも決して損にはならないと思ったし、周囲に仲間の気配の漂う真田の領内だったからと言い訳をつけて、何より主の輝く瞳が見たいと告げる己の胸に従ったのだ。
それは真実、誰のためであったのか。
突き詰めることも出来ないまま、近すぎる距離を持て余している。

「佐助は口にしなかったが、あれは旨かったぞ。」
「そいつは良かった。また獲ってく?お城戻ったら出せるけど。」
「本当か!」

きらきらと瞳を輝かせて裾を捲り始める幸村に、俺が獲るよ、と一応かけるだけ声をかけてみる。
案の定、問題ない!と威勢の良い返答と共に水飛沫が跳ね上がった。
いっそ脱いじまえば良いのに、と目の前の大童にけれども佐助の目許が自然と綻ぶ。
ふと岩陰に魚を求めて視線を彷徨わせていた幸村が、佐助を振り返った。

「何ですか、俺もやっぱ手伝う?」
「いや…佐助は魚が好きだったのか?」
「は?」

わけが分からない、と思い切り肩眉を押し上げると、幸村は佐助の顔を水に濡れた指先で示した。




「笑っていたぞ。」



嬉しそうに告げる幸村の声が、佐助の胸を抉る。
思わず右手で顔面を覆うと、佐助は小さく気のせいですよ、と音にした。

自覚が無かった。
脳を介さずに面に出して良い感情では・・・・・本より抱くことすら不遜であるはずのものを、いつからこうも容易く主に晒すまでに成り下がってしまったのか。
見ていたのは、胸に描いたのは、
魚などではなく。


「む。では魚は嫌いか。」
「嫌いっていうか…ま、旨きゃ何だって良いけどさ、そもそも魚なんて必要ないなら食べないんだよね。臭い出ちゃうでしょ。」
「そうか…残念だな、こんなに美味いものを。」
「俺様の分も旦那が食ってくれりゃあ良いじゃないの。ね?」
「うむ……いや、それはお前おかしくはないか。」
「そーお?ま、どのみち旦那が魚獲れなきゃ話になんないよ。頑張って下さいね。」
「おお!そうであったな!」

任せておけ!と再び岩陰に集中する幸村の長髪は、今度は釣り糸よろしく水の流れにゆらゆらと浮かんでいる。
不意にそれがぱしゃりと弾けると、両腕を抱え上げた幸村が、満面の笑みで佐助を見上げた。

「見ろ、佐助!大物だぞ!佐助にも食わせてやるからな、こいつは持っていてくれ。」

そう叫びながら、ばしゃばしゃと小川を分断し、川辺に突っ立っている佐助に生け捕りにされたばかりで身をうねらせて暴れる魚を押し付けると、幸村は更なる獲物を求めて水の中へと引き返していった。
腕の中で跳ねる鱗を器用に押さえ付け、佐助は疲れた声を出す。
食べないと言ったばかりではないか。
それは佐助の職能のため、ひいては幸村のためでもあるというのに、聞き分けないのは珍しかったけれど、取り立てて必要に駆られないのであればやはり、口にはせずにいたい。

「あのねえ、さっき言ったでしょ?理由もなく食べたりしたくないの。」
「理由ならあるだろう。」
「何があるってのよ、」

きっぱりと言い放つ幸村に、弱ったものだと肩を落として佐助が溜息まじりに問えば、黒鳶の眼が佐助を見もせずに、至極当然と答えた。



「美味ければやはり食いたいと思うのだろう?
好きならば多少の無理はしても、我慢をするものではないぞ。」



きらり、眼光を尖らせたかと思うやいなや二匹目を日光に晒し、誇らしげに佐助に持ち上げてみせる幸村の面を、彼の忍は仰ぐことが出来なかった。
もう一匹、と再度佐助に捕らえた魚を渡して腕まくりを深くする主の横顔すら望むことも出来ないまま、逃げようともがく二匹の川魚に、そっと手持ちの針を刺して身動きを取れなくしてやった。

「…好きなはず、ないでしょうが。」

呟いた言葉は、日を浴び大気に放り出されて乾涸び始めた銀の鱗に、ほんのわずか散って消えた。


好きじゃないよ

 

≫「愛してるから。」(配布元:潦)07.好きじゃないよ

後半部はとっぱらいました。これは佐幸でもいけるのかもしれない。

 

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